2012/04/26(木)【2012年4月講座】竹井研二氏『映画(シネマ)は、街の必需品』
【場所】上尾商工会議所 大会議室
【講師】NPO法人市民シアター・エフ 代表理事 竹石 研二 氏
【テーマ】「映画(シネマ)は、街の必需品」
【記録者】伊巻会計事務所 坂巻政夫
上尾にも映画館が無く、現在、上尾市内でも「まちの映画館」をつくろうという動きもあり、興味のある内容でした。
塾頭からも「竹石氏から映画館をつくろうとした“夢をあきらめない姿”を学び取ってほしい」とのコメントがあり、講座がスタートしました。
冒頭、「(山のない)谷ばかりの失敗談ですが、何かお役にたてば」との謙虚なご挨拶。
64歳で映画館をつくるという「夢を実現した」竹石氏ですが、語り口はどちらかといえば穏やかでもの柔らかな話し方でした。
生まれは墨田区。職人の子として生まれ育ったそうです。
原っぱで遊び、近所には映画館が5軒ほどあり、まさに、『Always ~三丁目の夕日~』の世界。「当時の町並みがほんとうに好きだった」と当時を振り返りいとおしそうに述べておられました。
朝夕、新聞配達をしながら、映画学校へ。
当時、おこさんが1人いて松戸から横浜へ通ったとのこと。
その後、経験した職業の数は11。
看護士の奥様(深谷市)と結婚し、おこさんを3人授かりました。
さいたま生協で10年間勤め、当時の共同購入システムを背景に「観劇や映画鑑賞会」も企画。50歳で深谷が恋しくなり、「何か深谷の力になれないか。」との思いが強まっていったそうです。
その後、空き店舗を活用し、映画館をつくることを実行するも失敗続き…。
(1)洋品店の2階をかなりの金額をかけ改装するも、消防法に抵触し、やむなくすぐに閉館。
(2)旧さくら銀行を改装し、2軒目の映画館を開館。しかし、これも区画整理にかかり、やむなく閉館。
(3)その後、旧酒造を改築(8,000万、補助金、借入金等で賄う)し現在の『深谷シネマ』に至る。(人件費も出ない時もあり、現在も受付はボランティアの協力も。現在も借金1,000万返済中。)
講演終了後、塾生から質問も多数寄せられましたが、以下はそのうちの一つ。
(質問)竹石さんを駆り立てた、原動力は何だったのですか?◆こどもの頃の「Always ~三丁目の夕日~」の世界、映画館が身近にある街並みの記憶。
(竹石氏)「自分がリタイアした時に、どのような街になっていてもらいたいかと考えていました。
◆映画学校へ通う。
◆生協に勤めている時も、映画鑑賞会等を企画。
◆深谷の町並みをなんとか、理想としている町並みにならないか。
竹石氏には、常に“生涯映画”という生き方の一連の土壌があったのでした。
夢はずっとこころの中で、続いていくものなのだなと感じました。
【ある日の出来事】
平成24年4月22日(日)10:10に私と竹石氏は『深谷シネマ』で再会しました。
私「この間(4月19日)、上尾に来ていただきましたね」
竹石氏「あ々、そうですか、うれしい。」
と、思わず、握手をして絆を感じました。
深谷を訪ねてみて思ったこと。
駅舎からはじまり、酒造等のれんが造りの建物多く、レトロの町並みそのものでした。深谷シネマ近くの、町医者の橋本医院の建物も…
そして、深谷シネマへ続く門をくぐると、古びた電柱や、廃屋、剥がれた張り紙。まさしくそこは、異次元へのタイムスリップ。
映画館の中は、50席でこじんまりとしていましたが、銀座にあった古い映画を上映していた映画館「並木座」を彷彿させ、私はとても懐かしく感じました。
(映画は、「エンディングノート」。孫とのベットでの別れ際の言葉には、涙しました。)
深谷を訪ねて、竹石氏がおっしゃっていた“内なる深谷”への熱い思いを感じた一日でした。みなさんも何気ない日常から離れて、レトロな非日常を味わってみませんか?
【講演終了後のディスカッション】
今回のディスカッションのテーマは「私たちのできる“まちおこし”は何か」。
各班からいろいろと意見が出ましたが、ひとりの力でのまちおこしは難しい、成功しがたいものがあると感じました。
ある本に、成功する秘訣は?とあり「成功する秘訣は、成功するまでやる」と書かれていました。まさしく、講師の竹石氏は、夢をあきらめず「成功するまで行った」成功者の1人でしょう。